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「押し付け憲法」ですが何か?←「自民党草案」は権利を奪い義務を課す「怖い『自主憲法』」

「日本国憲法」は12ヶ月の難産の産まれました。
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安倍総理を筆頭に、改憲を訴える保守派は、現憲法が日本が敗戦し主権が無い時期にわずか八日間でGHQが作成して押し付けたものであり、この誇りの持てない「みっともない憲法」は、日本が独立した主権国家の現在日本人自身の手で改正して自主憲法を持つべしと主張しています。

(ところでそんな自民党が推す「自主憲法」は人権を否定し明治憲法より旧態依然の義務を国民に課す、酷い内容です。これについては別途ご紹介します。)

私もGHQが八日間で作成したことは事実であり、そこから導かれる安倍総理の問題意識に共感する人も多いと思います。

しかし、主権在民、平和主義、基本的人権の尊重の三つの柱を持つ世界でも希な理想主義的な憲法がわずか八日間で本当に作成できたのでしょうか。実はGHQ草案が出来る一月以上前に日本の民間人たちによって日本国憲法に極めて似た憲法草案が作成され公表されていました。しかもそれはGHQによって高く評価されていたのです。この日本人の手になる草案こそGHQ草案の元ネタであったと私は思います。

ですから保守派が主張するGHQによる粗製憲法論は憲法を産み出した先人達の苦労を冒涜し、日本の「国のかたち」を貶める極論だと思います。憲法誕生の歴史を八日間に限るのか、12ヶ月に亘ってみるのかで憲法への見方が正反対になります。私たちは「国のかたち」を決めた12ヶ月の憲法誕生の歴史を、今こそ振り返り自身でしっかりと考えることが必要ではないでしょうか。

■日本国憲法の「苗床」
憲法制定の苗床は日本が受諾したポツダム宣言と進駐したGHQの各種指令によって用意されました。「ポツダム宣言」第10項には民主主義的傾向の復活強化、そして言論、宗教、及び思想の自由並びに基本的人権の尊重が確立されること、そして第11項には、日本国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求めるとあり、こうした条件が達成された場合に占領軍は撤退すると記されています。GHQはこのポツダム宣言に則り撤退の条件として民主的な憲法を日本自身で制定することを求めました。然し、当時の政府や政党は皆「国体護持(天皇制堅持)」を考えていました。

■日本国憲法の種
NHK放送「焼け跡から生まれた憲法草案」(2007年2月10日、以下 同番組)https://www.youtube.com/watch?v=XLJi3mNh3P0 によれば、1945年8月30日GHQが進駐し10月4日人権指令により治安維持法廃止、言論統制撤廃、政治犯釈放などの措置が採られ多くの知識人が抑圧から解放されました。同年11月に民間の知識人7名により「憲法研究会」が結成され11月5日第一回会合が焼け跡のビルの一室で開かれました。憲法の種の生成がここから始まりました。

メンバーの多くはその自由主義的思想により逮捕・投獄されたり著書の発禁処分、執筆禁止措置を受けたりしていました。中心となったのが憲法学者鈴木安蔵です。彼は大正デモクラシーを主導した吉野作造の愛弟子で明治憲法制定前に盛んだった自由民権運動を研究していました。高知の民権運動家植木枝盛の主権在民、基本的人権の尊重を唱った憲法草案も入手していました。植木枝盛はアメリカ独立宣言(主権在民)、フランス革命人権宣言(基本的人権の尊重)に強く影響されたと言われています。

1945年12月28日、彼らの憲法草案が毎日新聞に発表されました。全58条の憲法草案は、主権在民、象徴天皇制、国際協調・平和主義、基本的人権の尊重、言論の自由など現憲法の骨子が殆ど含まれていました。同番組では、この草案を”自由・権利を抑圧された人々の権利の請願”と述べています。まさに憲法草案の形をとった自由への願いが、それまで人々を覆っていた巨大な抑圧の蓋が取り払われた瞬間に噴き上がってきたのです。

GHQは大きな関心を寄せ直ちに翻訳して分析しました。この時担当したのが、民政局法規課長マイロ・ラウエル中佐です。彼は法律学の博士号を持つ弁護士で明治憲法も学んでいました。翌46年1月11日、彼は報告書を提出しました。報告書には「主権在民、差別禁止、労働者の権利保障、国民投票の規定など、極めて自由主義的な条文であり、民主的で受け入れられる」そして欠けているものとして「最高法規としての憲法、違憲立法審査権、刑事被告人の人権保証、主要地方公務員の選挙」が記されました。

この報告書は民政局次長チャールズ・ケーディス大佐と打ち合わせの上了承され、民政局長ホイットニー准将に提出されて承認されました。

後にラウエル氏は当時を振り返ってこう証言しています。「何ていい案なんだろう。どうしてこんな案ができたのだろう。この民間草案を基にいくつか修正すればマッカーサー最高指令官が大いに満足出来る憲法を作ることができるというのが私の見解でした。こうして私も仲間たちもみんなこれで憲法が出来ると希望を抱いたのです。」日本政府も政党も国体護持(天皇制堅持)を唱える中、GHQはこの民間草案に憲法制定への希望を見いだしていました。

■かくしてGHQ憲法草案は「押しつけられた」
幣原内閣憲法調査委員会(松本委員会)がなかなか政府草案を公表しない中、1月24日幣原首相はマッカーサーと会見し象徴天皇制と戦争放棄を提案しました。戦争放棄は民間草案の国際協調・平和主義の先を行く提案でした。そして、なんとGHQから憲法案を押し付けてもらいたいと進言しました。
http://lite-ra.com/2016/02/post-2017.html

幣原首相の手記「外交50年」の「新憲法は私に関する限り誰からも強いられたのではない」という記述は字句通りに理解する必要があるのです。

当時政府や政界内では保守的な意見が大勢を占めており、首相がGHQとの板挟みを打開する為にはこうしたやり方しか残されていなかったのだと思います。「GHQの押し付け憲法」は、正確には「GHQに押し付けてもらった憲法」なのです。

2月1日、松本委員会が作成していた政府憲法草案が毎日新聞にスクープされました。担当した記者西山柳造氏は後に「憲法草案は首相官邸一階にあった内閣憲法調査委員会事務局で入手した」と証言しています。記者が機密文書を某所で密かに入手したのではなく、首相官邸で入手したということは何を意味しているのでしょうか。

その憲法草案の内容が天皇統治の立憲君主制という明治憲法の焼き直しであったためマッカーサーはGHQにて草案を作成することを決断、2月3日に三原則「天皇は国家の最上位(象徴天皇制)、戦争放棄、封建制度廃止」を部下に指示しました。25名のスタッフが突貫でGHQ草案を作成し2月12日に完了、翌13日に政府に提示しました。日本の民間から産まれた種がGHQ草案に受け継がれたのかの確証はありません。然し、短時日の作業の中、重要な参考資料として使われたのは疑いようがないと思います。GHQが日本政府に草案を提示した際、政府が反対するなら直接日本国民に公表すると明言しました。この草案なら国民に受け入れられるという自信をGHQが持っていたということでしょう。

■そしてついに日本国憲法は結実した
幣原内閣はGHQ草案を巡って紛糾しますが受け入れを決定し、日本の国内法などとの調整・修正を経て3月6日政府草案を発表しました。政府草案はメディアから好意的に受け止められ政府は発表の四日後、総選挙(男女同権の第一回普通選挙)を4月に行うことを告示します。改革の機運を先取りした保守政党が国民の支持を集めて吉田茂を中心とする自由党が選挙で躍進し政権を獲得しました。

もし、政府草案がGHQによって押しつけられたものであると国民が分かっていたらどうなっていたでしょうか。民族的な自尊心が傷つけられ激しい反対運動が起こったかもしれません。当時の政府内や政界にいた国体護持派がそうした画策をすることもありませんでした。国民は主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重を三原則とする憲法草案を歓迎したのです。

1946年6月から第一回帝国議会において政府草案が審議されました。草案では義務教育の対象は初等教育(小学校)に改められました。また草案にはなかった「生存権(25条)」が加えられました。これは民間の憲法研究会メンバーの一人である森戸辰男が国会議員に当選し彼らの草案にあったものの政府案にはなかったので復活させたものです。こうして、主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重を三原則とする日本国憲法は国会決議を経て1946年11月3日に公布されました。

■12ヶ月間の懐妊期間の纏め
みなさんと憲法が産まれる約12ヶ月間の懐妊期間を振り返ってきました。自由民権運動の中から日本で芽生えた自由主義的な思想の潮流が、明治憲法下の抑圧時代を経て敗戦により新しい憲法の種となり、日本国憲法に結実しました。憲法制定の過程を見るとGHQは日本が自身で制定することを期待し見守っていたことがよく分かります。そして押しつけの役まで日本から依頼され引き受けています。

GHQは憲法の母ではなく誕生を助けた産婆さんの役割ではなかったでしょうか。産んだ母は日本なのです。それをアメリカ産だと主張することは、産地偽装だと難癖をつけるクレーマーと変わるところはありません。

■憲法が支えた日本の独立
さて、憲法は産み落とされて終わりではなく、誕生した後が重要です。憲法で新しい国のかたちが作られていくからです。憲法によってGHQ撤退の条件は整えられましたが、日本は国際社会から赦され認められて初めて独立が果たされます。

1951年、サンフランシスコ講和会議でフィリピンのカルロス・ロムロ外相は次のように演説しました。「我々は共に平和に生きる他ありません。その為には我々が赦しと友情の手をさしのべる前に日本には心からの悔恨(spiritual contrition)と生まれ変わる(renewal)証拠を明確に示して欲しいのです。」彼はアジアの多くの人々の感情を代弁していました。

日本が国家としてアジアで生きていくためには、平和を愛する諸国民(=人々)の赦しと友情が不可欠でした。そして憲法前文にある日本国民としての「決意表明」が日本の独立に決定的な役割を果たしたと思います。憲法前文を安倍総理は著書「新しい日本へ」の中で連合国に対する詫び証文のようだと評しています。然し、この詫び証文なしに諸国民が日本を赦し受け容れてくれたとは、私にはとても思えません。

この日本国民の決意表明は、日本の独立の決定打になったばかりか、その後の戦後賠償や国交回復、平和条約締結にも重要な役割を担ったと思います。そして自衛隊の海外派兵の歯止めにもなってきました。

日本の独立と国際社会への復帰は、戦後の国際秩序をアメリカが主導したことで可能になった面はありますが、それでも憲法に示された日本国民の決意と切り離すことは出来ないと思います。そう考えると、日本が独立した主権国家の現在日本人自身の手で改正して自主憲法を持つべしという主張は歴史を無視した暴論という外ないのではないでしょうか。

憲法は社会をよくするツールですから社会の変化に合わせて手直ししていくのは当然のことです。然し、憲法が産まれ日本の独立が果たされて国際社会に受け容れられてきた経緯を見れば、自民党草案のような全面的な改正は直ちに深刻な外交問題を惹起するように思うのです。

日本の総理が自主憲法制定を唱える姿を、かって日本を受け容れてくれた諸国民がどういう気持ちで見ているのか、私はとても気になります。


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